太陽は既に寝静まり健康的に過ごす子供であればとっくに寝息を立てているであろう時間にも関わらず、ある一国の城の廊下に蝋燭(ろうそく)のおかげで全くの暗闇にならずに済んだその廊下をひた歩く少年が一人。その少年はまるで我が家の様に周りを警戒せずに歩き、迷宮のように入り組んだ構造の城の廊下を迷ったという素振りを見せず、その先にある螺旋状の石段を目指していた。

 階段を上がっていると、巡回の為か少年より先に上階に居た者がコツコツと靴底を鳴らして石段を下ってくる。もしこの足音の正体が巡回を行っているこの城の兵士だったとするならば、この少年は賊として捕らえらてしまうかもしれない。がしかし、この少年が既にこの城に住まう人間全員と顔見知りであれば話は別であり、そしてまさにこの少年は後者に該当する人間であった。

 ついに間近まで足音が近づくと、少年はその兵士を驚かせようと思ったのか顔を悪戯っぽくにやつかせながら足音を殺し階段を降り、壁に微ったりと張り付いて身を潜ませる。

「Формирование(形成)」

壁の向こうから聞きなれない言葉が少年の耳に届くと少年の顔から悪戯好きの子供のにやつきが消え、焦ったような表情になると、ごくりと生唾を飲み込みこんだ。向こうがどういう対応を取ったとしてもできるだけそれに応えられるように、覚悟を決めた。ちょうどそれを見計らったかのように壁の向こう側から

「Падать(落下)」

声が聞こえると同時にゴインと音を立てて少年の頭に何かが落下した。

「―――!?」

予想外の攻撃とそれに伴う痛みに思わず被弾部を抑えて呻きながらしゃがみこむと自分の頭に何が落下したのかを知った。

「〜〜〜ん何をするんですか!ラークスさん!」

こういうことをするのは一人しかいないと自らに攻撃した人間を限定し、目に涙を浮かべながら顔を上げ痛みを訴えると、そこには厳つい顔で悪戯っぽい笑顔を浮かべる男がいた。

「はっはっは。私の足音が聞こえてから隠れても遅いですよ」

そう言って少年の目の前に現れるラークスと呼ばれた兵士。その手には一般男性の身長をゆうに超える巨大な戦斧(せんぷ)、ハルバードが担がれていた。元々小柄なラークスが持っているせいか、その巨大さが強調され、より恐ろしい武器に見えてくる。しかし少年はそんな巨大な武器を担ぐ彼に恐れることもなく、むしろ多少の怒りを込めて自らの頭に落下したモノを彼の目の前に見せつけ抗議した。

「だからって、鉄板を落とすことはないじゃないですか」

しかしその抗議に対して悪びれる様子が無いラークスは笑顔ですいませんと言いながら少年の頭を撫でた。それでも納得がいかないのか少年は未だに頬を膨らまし抗議の目線を向けている。だが、ラークスはもう謝罪はしたというかのようにその視線を全く気にせずこの少年がこの深夜に出歩いていることの話題へと切り替わる。

「ところで、今日はあの日でしたか?」

「あの日」という言葉がこの二人の間に共通した意味を持っているのか、少年は怒った表情から笑顔へと変わり

「そうですよ」

と頷くと、思い出したように

「父は先ほどまで何をしていました?」

とラークスに尋ねた。

「あぁ。アレクサンドル王なら執務室に居られると思いますよ。先ほど仕事の進行具合を覗かさせていただきましたが、まだしばらく終わるとは思えませんでしたね」

この少年の父親、アレクサンドルというのはこの国の王である。故にこの少年が兵士から敬語を使われているのはこの少年がこの国の第一王位継承者であるからだ。

 少しの間ラークスと少年が雑談をしていると、

「そう言えばラークスさん。巡回は執務室までだったんですか?」

と少年が何気なしにラークスに尋ねた。すると彼は思い出したように懐から懐中時計を取り出し時間を確認し、体をびくりと強張らせた。すると

「うわわわわ!そ、そろそろ巡回を再開しないと師匠に怒られるどころじゃ済まない!」

とラークスは厳つい顔にはまるで似合わない泣きそうな声を上げ始めた。

「うわ、ご、ごめんなさい長い時間引き止めてしまって!
 お、怒ると怖いですもんねギガルスさんって…」

大の男が泣きそうな声を上げていることを嘲ることはせず、むしろ我が身の事のように少年は慌てふためくと、ラークスは

「い、いえ!とんでもございません!それではディルムッド皇子!失礼いたします!」

と急いで懐中時計を懐に押し込みながらそう言うと、ディルムッドと呼ばれた少年に一礼しそそくさと階段を下っていった。

 一人取り残されたディルムッドはラークスの安否を少しばかり心配しつつ、螺旋状の石段を上がっていった。

 行き着いた部屋は玉座の間。城に勤めている兵士を二百人はゆうに収容できる程広く、その部屋の中心からやや後方にポツンと玉座が一つだけ置かれており、飾り気のないその玉座は主が不在の今、威光も尊大さも放つことはない。それの後ろには扉が二つあり、そのうち向かって左側の扉、執務室から灯りが漏れていて、国王アレンがそちらにいることを教えてくれた。

 いくら自分が国王の息子だからとはいえ、彼の執務を邪魔するのは執務妨害であり、それ故ディルムッドは執務室の扉の間隣りの壁にもたれ、彼が出てくるのを待つことにした。

 一時間は経っただろうか、執務室の中にある振り子時計がボォーンと音を響かせ十二時であることを告げる。その音が鳴り響いてほどなくすると、執務室の明かりが消え、木造扉がキィと軋みながら開くと、部屋から一人の男がのそりと出てきた。月明かりの淡い光ではその男の表情は窺うことができない

「ディル・・・寝てるのか・・・」

壁にもたれ、体育座りをしながら腕を枕にしてスゥスゥと寝息を立てている息子を見て、手を顎に当てふむと少しばかり思案すると、ディルを起こさないようにそっと抱き上げ、隣の部屋、寝室の扉のドアノブを器用に足で開ける。

 国王の寝室は、およそ一国を治める人間の部屋とは思えないほどに非常に殺風景なものだった。寝るためのシングルサイズのベッドがあり、それの前には小さな丸いテーブルと二つの椅子が設置されているだけだった。

 ディルをベッドに横たわらせ、掛け布団を掛け、部屋に取り付けられた燭台に火を灯し、部屋の中を淡く照らす。蝋燭の明かりにより男、アレクサンドルの端正な顔が露わになった。

 肩まで伸びる白髪。羽織っているマントの所為で体格は判断しづらいが身長は一般男性並み。過去はハンサムだったのだろうか、年をとった彼の顔には世の女性を酔わす渋さがある。

 椅子に腰を掛けふとディルに顔を向けると、彼の安らかな寝顔には安心する。気がつけば彼はディルの頭を撫でていた。

 アレクサンドルが統治する国、レニングラード王国はまだ若く、建国されて十年ほどしか経過していない。しかも、建国してからというもの、隣国イーマ公国との戦争は未だに終結してはいなかった。

 アレクサンドルは一国の王となる前は「生きる伝説」とまで言われた傭兵であり、過去に幾度となく各国の最強の騎士団にスカウトされていたが全て断り、最終的に自らの国を築き上げた。しかしその選択が歓迎されることはなく、任務の関係から顔見知りであったイーマ公国王族からは自らの国土を狭められたということもあり、裏切り行為とみなされ宣戦布告を受けた。

レニングラードは元々非戦闘民が多かったために完全なる多勢に無勢の構図が出来上がっていたが、それをアレンの奇抜な采配によりそれを打開。しかし、イーマ公国は同盟国であり、五大陸大国一の軍事力を持つサスペント帝国に助力を求め、サスペントはそれを承諾、強大な軍事力を手に入れたイーマ公国は息を吹き返し戦争を続行することになった。

 そして戦争は終結しないまま、現在まで至ってしまった。

 全てはこの安らかな寝顔のために、彼は戦い続けてきた。しかし、国民全員が安らかに眠りに就いているわけではないことは彼にも分かっている。故に彼は戦うことを止められずにいた。

 ―――コンコン

 不意にドアがノックされる。

 アレクサンドルの返事を待たずにドアが開かれるが、アレンはそれを咎めることはない。なぜなら咎めるだけ無駄であることを知っているからである。

「よう」

部屋に入ってきたのはすらりと高い身長で短い金髪に碧眼で美人なのだがほんの少し垂れた目に、右目尻の泣き黒子の所為か何処となく軽そうに見える女。背中が空いているピッチリとしたタンクトップを着込み、下半身にのみ甲冑を纏わせた珍妙な格好をしていた。一見華奢に見える彼女の筋肉は女とは思えないほど鋼のように引き締まっていて、外見だけでいえば二十代前半といったところだが、実年齢は四十半ばの中年女性である。彼女の肉体の成長と老化は彼女の肉体成長がピークだった二十歳の時から停止している。その原因は背中に刻まれた黒焔(こくえん)の紋様にあるそうなのだが、実際にはわかっていない。

「何の用だ?」

そう尋ねられた女は何を言うでもなく、にやりと笑いながら茶色の液体が入っている瓶を二本掲げる。

「今日はあの日だろ?酒でも飲みながら話そうや」

酒瓶を持った手の逆の手にはご丁寧にも逆の手にはグラスも二つ握られていて、それらを机に置いてからもう一つの椅子に腰を掛けると、慣れた手つきで酒瓶のキャップをカキュリと捻り開栓した。

「その聞き手はこの様だがな」

親指でディルを指すと、ハリーは彼の顔を見てカラカラと笑いながら、グラスに酒を満たしていく。

「どうせお前が執務を終わらせてなかったせいで待たせたんだろう」

仮にも王に対する口のきき方とは思えないが、互いにそのことを気にしている様子はなかった。

 しばらく二人は無言で過ごしていた。金髪の女は酒を飲み、アレンは何もせず、二人してディルのことを眺めていた。それは決して気まずい沈黙ではなく、とても心地良いものだった。

 三十分経過し、ディルは目が覚めたのかのっそりと体を起こし辺りを見回す。

 父を待っている間執務室の扉の隣でしばらく座り込んでいたことまでは覚えている。しかし目を開けてみれば目の前には蝋燭の明かりがともっていて、寝ぼけた頭でもこの場所が玉座の間ではないことは判断することができた。

 ボーっとしながら辺りを見回してみると、そこには見慣れた人間が二人。

「父さん…ハリーおばさん?」

すると寝ぼけた頭は徐々に覚醒していき、そしてこの場所が自らの父親の寝室、しかもそのベッドを占領して寝ていたことに気付くと弾けたようにその場から離れる。

「も、申し訳ありません、国王陛下!僕から持ちかけた約束でしたのに眠りこけてしまって!」

寝ぼけていた時とは打って変わって、まるで親に対する口調とはとても思えない口調で謝罪の言葉を口にしながら、ディルは深々と頭を下げる。この対応にハリーと呼ばれた女とアレンは同時に呆れたような溜息を吐いた。

「ディル…もうこいつの執務は終わったんだ。そんな堅い喋り方はやめろ…それにこいつは息子とそんなかったい会話はしたくないってさ」

グラスを持った手で器用にアレンを指さしながらハリーがそう言った。指を差されたことにアレンは少し顔をムッとさせたが、ハリーは気にしないことにした。

 しかし、堅い口調をやめろと言われても、自ら取り付けた約束の手前、眠りこけるなどと言う失態の後から立ち直ることは、ディルにとっては困難を極めることだった。いつまでも申し訳なさそうな顔をしているディルを見て再びアレンは溜息をつくと

「まぁ、いい。ディル。座りなさい」

そう言ってベッドに座るように促した。ディルは躊躇いがちに再びベッドに腰を掛ける。彼は未だにバツが悪そうに顔を伏せていると、ハリーは陽気な声を上げ気まずい雰囲気を打ち消す。

「ところでディル。今日はあの日だったよな?」

そう言うとディルは顔を上げ、こくりと頷く。

「さて、前回はどこまで話したか…」

アレンが思い出すようにこめかみに手を当てていると、彼が思い出すより先にディルが話し、アレンに思い出させる。

「イーマ公国皇女が婚約のためにサスペント帝国まで移動する際、護衛をしたと言う話でした」

先ほどまでのバツの悪そうな顔は一体どこへ行ったのかと思えるほど期待に満ちた顔をアレンに向ける。アレンはそうだったと思い出したように顔を上げると、別の事も思いだしたようで苦々しい表情になった。そしてハリーも何か思い当たることがあったのか顔をハッとさせ、アレンとハリーは互いに顔を向き合わせた。

「イーマの皇女の護衛任務の後に受けた依頼って…」

ハリーはそう言って言葉を切ると、アレンが嫌なことを思い出したように眉間の溝がさらに深くなり、

「あぁ。フォルノストの王族の護衛だ」

と呟いた。

「あの、嫌なことでもあったんですか?」

二人のやり取りを不思議に思ったのか、ディルは不安そうにすると、あぁ。と二人とも声を揃えて応答する。

「いやな、その時の任務ってのが…」

ハリーは頬をポリポリと掻きながら曖昧な返事をすると、アレンはあからさまに嫌そうな顔をしながらハリーのことをにらみつけた。

「こいつと初めてコンビを組んだときなんだ」

そう言いながらアレンは今日初めての酒を口にした。

 先ほどから口にされてきた「あの日」と言うのは、アレンの過去の話をしてもらう日。週に一度、この昔話は語られる。時には本人から、時にはその隣にいる人間から。様々な人間から語られるアレンの話は、ディルにとってとても刺激的で、それと同時にとても誇らしい話でもあった。

 そして、今回も一つの昔話が紐解かれる。






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